YouTubeで見つけた『Art Zero Channel』
妻との離婚でどうしようもなく落ち込んでいたので、zeroさんの動画にコメントさせていただきました。
そうしたところ、私の悩みを動画内で取り上げて下さいましたが、そのお言葉が厳しく、今でも観るのがこわくて躊躇してしまいます。
でも、表面的な甘い言葉でごまかさないところが、zeroさんの素敵なところだと感じています。
zeroさんの動画を見るにあたって、ラマナ・マハルシの『あるがままに』をお読みになることをおすすでします。
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- zeroさんが私の悩みを取り上げて下さった動画
- Art Zero Channelのおすすめ動画を紹介
- ホログラム宇宙からの離脱 世界という「映画・情報」の終焉【完全版】
- 科学至上主義からの脱却
- 食事と霊性 制限食や断食の前に
- 食事と霊性 生活とのバランスを模索する
- 精神忙殺症のための 心身とエネルギーの浄化・瞑想 心の柔軟剤・漂白剤
- 心の最奥にあるもの レモン汁から0へ
- 時間は存在しない 秒針から0へ
- カルマからの真の解放 子猫から0へ
- 太陽信仰の神の正体 水面の光から0へ
- 世界は一瞬でつくられている いろは歌から0へ
- 天使vs悪魔 最終戦争の結末 鏡から0へ
- 「私」と「世界」はあなた一人の夢芝居 パラレルワールド説の落とし穴から0へ
- 自我の意表を突く、慈悲の精神 「まず自分」の罠から0へ
- プラトニック・ラブとエロス イデアから0へ
- イエス最後の7つの言葉 十字架から0へ
- 【虚空資料】人、宇宙、神についての真実の知識
- 中世の神秘家マイスター・エックハルト
- ラマナ・マハルシ Ramana Maharshi
zeroさんが私の悩みを取り上げて下さった動画
様々な「真我」に化ける自我 ~完全な均衡状態に戻る知・行・信~
Art Zero Channelのおすすめ動画を紹介
ホログラム宇宙からの離脱 世界という「映画・情報」の終焉【完全版】
自我や世界という情報・映画を超えて
内容:
・情報社会の空虚
・言語の性質と限界
・社会的問題全般と精神病理
・慣習化された解釈と基準設定の意識化
・流動的解釈法
・肉体の情報処理ツールの限界
・世界や宇宙という「現実」の崩壊
・夢世界の発生と展開の無意識性
・現実世界の発生と展開の無意識性
・潜在意識・阿頼耶識・無意識、集団的無意識
コペルニクス的転回
・~肉体を含めた「世界」は全て「外から内へ」ではなく、
「内から外へ」投影され創造・消滅・展開される~
・「外」は実際には「内」
・引き寄せの法則とイエスの言葉、奇跡や超自然力などの当然さ
・日常における奇跡・全知・全能の無意識領域の働き
・聖者・覚者の言動の解明
・創世記~黙示録に至るまで、全ては内的事象の象徴表現
・「映画(全てが詰まった種・フィルム・記録媒体・ホログラム)鑑賞」にハマって輪廻する
・カルマ(行為・考えたことも含む)によって、
潜在意識に刻まれたもので次の「映画」を無意識で選び取る
「覚醒映画」を選ぶまで、わざと「気づき」がないように無意識にブロックをかけた設定のストーリーを選び続ける
・解脱とは無意識でも「映画鑑賞」を完全に飽きてやめること
・スクリーン上の幸福と、真の自己を知る幸福
・肉体・私意識・「私は在る」を含め世界、行動、内的な考えなど
・全て自分のものは何一つない
・そこに「何もなく、そしてまた全てがある」という至福
・意識の昇り降り、聖書の「神の栄光を反映する」の意味
・でんぐり返し -これも一つの情報・概念でしかない- 完
科学至上主義からの脱却
現代科学の呪縛を解く鍵 奴隷解放宣言
内容:
・「科学」の一般的な定義
・現代の科学至上主義・科学信仰
・科学的方法の妥当性・信頼性と限界
・科学とオカルトを分ける「反証可能性」
・科学教(科学狂)へのパッション
・「オカルト(非正統派)」というレッテル
・オカルト(非正統派)が扱う領域と現代的意義
・パラダイムシフト(パラダイムチェンジ、転換)、コペルニクス的転回
・科学とオカルトの歴史的関係と親和性
・人工知能(AI)のシンギュラリティ(技術的特異点)への疑問
・現代科学の限界と人工知能の限界
・無限の選択肢と可能性を限定していく科学・学問・論理
・科学信仰以前の現実把握の利点
・非正統派が正統派を補完する可能性
・現代科学と古代科学(ヨーガ、ヴェーダなど)の歴史的関係
・古代科学における「科学的方法」
まとめ
・「ネオ科学」への提案と展望
・現代科学と古代科学の発展的融合に必要な柔軟性
・科学的思考と現実との差を軽視することからくる諸問題
・自分自身の肉体と精神
食事と霊性 制限食や断食の前に
食事と霊性 生活とのバランスを模索する
精神忙殺症のための 心身とエネルギーの浄化・瞑想 心の柔軟剤・漂白剤
心の最奥にあるもの レモン汁から0へ
時間は存在しない 秒針から0へ
カルマからの真の解放 子猫から0へ
太陽信仰の神の正体 水面の光から0へ
世界は一瞬でつくられている いろは歌から0へ
天使vs悪魔 最終戦争の結末 鏡から0へ
「私」と「世界」はあなた一人の夢芝居 パラレルワールド説の落とし穴から0へ
内容概要とメモ:パラレルワールドや次元上昇など諸々のスピリチュアルや宗教の教説の盲点。「選択する・手放す・行ずる・変化成長する、全てと一つになる、悟る・解脱する・・・など」の「私」は真の自己ではない。自我としては何か行ずる必要はあるが、ここで述べる、全ての修行における基本的・最重要項目を抜きに行えば逆に自我に確信を与えて逆効果となる。
あなたの「世界」の救い主はあなたしかいない。
合一すべき・解脱すべき・癒されるべき・平安になるべき「私」がいるのではない。真の「私」はすでにそれなのだ。それ以外にあり得ない。なぜならそれしか実際には実在しないからだ。全ては御心のまま、真我のみ。これがいかに喜ばしい、素晴らしい真実この上ないことか・・・。「私」「自分」という言葉が自我を意味するか真我を意味するか、文脈で判断してお聴きください。
ただ浮かんでくることを言葉にして、自我としての「私」に向かって話す独り言に過ぎない。そして、あなたが聴いている私の話は、あなたの内にもあることをあなたが造り出してあたかも客観的に聴いているかのように錯覚しているだけなのです。
常に気づきと共にあらんことを。
自我の意表を突く、慈悲の精神 「まず自分」の罠から0へ
滅びに至る道は広い。孤立と分断が進む時代、人はいともたやすく自我への執着の渦に巻き込まれていく。そこから抜け出すヒント、「自我の常識」の裏を突く「慈悲」の精神についての話を45分授業に凝縮した。
他者や世界の苦しみを見ながら、一つの世界観にとらわれ閉じこもり、共感もなく「大丈夫」「問題ない」などとしたり顔で言う「スピリチュアル・エゴイズム」の流行にくみする事も、
もっともらしい理由をつけながら正当化して「まず自分の事を」という「現代的エゴイズム」の常識に甘んじる事も、
どちらも同じ「自我の罠」にかかっていることに気づかなければならない。なんと多くの人がその「広い道」に引き寄せられていることか。
この状況で見直したいのが、「慈悲」の精神だ。
自我の満足と喜びを全て、他に解き放ち尽くす事(慈)で、すでに与えられているものへの気づきを拡げていく。
他人や世界の苦を全て、自分に引き寄せて頂く事(悲)で、すでに与えられている広大な余地の気付きを拡げる。
釈迦の教えやイエスの奇跡の中に秘められた奥義を明らかにし、自と他(主体と客体、私と世界、自我と神・涅槃)の境界線を溶かし去る法をここで説く。
それは、小さな我に囚われている心にとっては、心地の良いものではないだろう。
しかし、霊的に解脱や救いを望む者にとっても、現世的な望みを実現したい者にとっても、その「完全成就」のために、これはあまりにも基本的で不可欠な精神だ。
霊的堕落暗黒時代において、自我にとっては「非常識」だが、小さく狭い門である虚空門の周辺では「常識」である理を、全ての人にお伝えする。
プラトニック・ラブとエロス イデアから0へ
ジュニャーナ・ヨーギであったソクラテスの弟子プラトンの思想を基にしたお話。
イエス最後の7つの言葉 十字架から0へ
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」について。
【虚空資料】人、宇宙、神についての真実の知識
虚空資料, ヴェーダ奥義書の精髄「真実の知識」
真理探究者、美容健康追求者、スピ系、ヨーガ全流派、哲学・思想・宗教者、自殺願望者など全ての人に贈る必須基礎知識。
Talk about the supreme knowledge,tattva bodha by shankara
内容
Ⅰ 人生の目的、輪廻、解脱、霊性の混乱
(Ⅱ 祈り) [割愛]
Ⅲ 真我実現(悟り)のための4資質
Ⅳ 人間存在の3つの体と意識、5つの体
Ⅴ 真我/神我の3つの性質
Ⅵ 黙示録や聖書の「24人の長老」の意味
Ⅶ 「あなたは神である」の意味
Ⅷ 3種のカルマと解脱者のカルマ
【虚空資料】真実の知識1/6 はじめに
【虚空資料】真実の知識2/6 悟りの4資質
【虚空資料】真実の知識3/6 人間の3つの体・5つの体,3つの意識状態
【虚空資料】真実の知識4/6 神・真我の3性質
【虚空資料】真実の知識5/6 人と宇宙の24要素流出展開, 黙示解釈「24人の長老」「4匹の獣」「光と闇」
【虚空資料】真実の知識6/6 3種のカルマと真実の智の果て
悟った人の境地について
ラマナ・マハルシ、ラーマ・クリシュナをはじめ、数々のインドの聖者が推薦したインドの聖典Ashtavakra Gitaをもとに、zero解釈を入れてできるだけ聴いてわかるようにまとめた。よって、この一連の動画は、あくまで一つの解釈・解説である。
ヨーガの真髄、ヴェーダーンタ、シャンカラによる不ニ一元、イエス、釈迦、老子、ムハンマド、ルーミー、中世神秘家マイスター・エックハルトなどの真の意味をくみとる際の基礎かつ精髄と言える内容。要は結局同じ事である。
「私の本性は真我・神・仏であるから怠惰に何もしなくともよい」と解釈するのは、易きに流れ悟らせまいとする自我の罠であり、真に本性にとどまり実現することはいつまでたってもできない。そこは注意深くお聴きいただきたい。行や瞑想を終えるとすぐにもとに戻ってしまうことを痛烈に指摘している箇所がある。
聖典・行・瞑想の放棄は、安易に早い段階でなされない。ハシゴは昇った後最終的に、必要がなくなるのであって、それまでは活用される。
真理・瞑想・真我・聖典を超えてゆけ
虚空からのつぶやき
悟りの書(入門)~釈迦やラマナ・マハルシ等も強烈な行を経て、行の必要を説いた理由~
アドヴァイタ(不二一元 ※非二元ではない)の心象表現。
すでに幾万年も続いている霊的暗黒時代の人類にとって、「悟り」と呼ばれている初期段階とはどのようなものか。
※共有済みの「虚空の独り言」シリーズ再編集完全版。混乱や誤解が起こりやすい「不二一元(アドヴァイタ)」が、本来どのようなもので、どのような導きであったのかを見直す機会とならん事を。
0 memo: (個人相談・質問への返答より抜粋・編集)
<内容>ラマナ・マハルシや釈迦が、熱烈な行を経ており、行の必要性を説いた理由について
「虚空の独り言」/「悟りの書(入門)」シリーズの内容は、アドヴァイタ(不二一元 ※非二元ではない)の心象表現。
すでに幾万年も続いている「霊的暗黒時代」(※古インドの宇宙周期では、カリ・ユガと言う)の人類にとって、「悟り」と呼ばれている初期段階とはどのようなものか伝えようとしている。
「不二一元(アドヴァイタ)」は、昔から混乱や誤解が起こりやすい。
本来どのようなもので、どのような導きであったのかを見直す必要があるでしょう。
いわゆる「悟り」の階層としては初期の入門段階だ。
あのシリーズの内容は、シャンカラの教義を基にしたアドヴァイタ系の識者たち(ラマナ・マハルシは著名)や、バクティ系のラーマ・クリシュナなども勧めた古文献を基にしている。
<沈黙を観ながらも、なぜまだ語り伝えたのか>
伝達者ら自身にとって必要な過程だったから。
彼ら近現代で聖者とされている行者たちや、イエス、釈迦らというのは、例外なく強烈で集中的な行を経ており、また然るべき霊的段階を垣間見た後も、まだ完全でなかったためにその生涯を終えるまで、それぞれ行に人生を捧げた事はよく知られている。
人にとっての「精神の沈黙」は本来、単に「通常状態」だが、霊的暗黒時代に生きる者たちにとっては、あまりに精神的・霊的な覆いが厚くこじれているため、彼らいわゆる「覚者や聖者と呼ばれている者たち」が真剣に取り組んだように「正しく、強烈に行をする事」すら、そもそもどういう事なのか理解できず、また行を進めたとしても「精神の沈黙」を維持する事自体がまれであるため、その「通常状態」でも信仰対象にすらなり得る。
しかしそこからさらに途方もないほどの「悟り」の階層があるため、そういった状態に至る者たちは、行と余生の活動を一つのものとして、より深く微細な解消を進めていくことになる。
アドヴァイタ(不二一元 学派)は本来、ヴェーダ聖典を基にした悟りの「哲学・論説」であって、その方法の詳細や実際的な事は他の学派(ヨーガ学派など)に委ねていた。
(無論、形骸化・表面的な行は、彼らも時に強く批判したが、注意深く意図を汲み取る事を怠らず、また彼ら自身も一般から見れば並外れた強烈な行をしている事から、その必要性を否定しているわけではない事がわかる)
その「知」に欠けている実践としての「行」が、「無意識層にある囚われをも完全に」明け渡すために是非とも必要となる事は、当時や彼らにとっては「あまりにも当たり前の事」であるがゆえに、ことさら強調されない。
アドヴァイタ系のシャンカラを始め、ラマナ・マハルシその他の識者の言葉や、聖典というのは、その「知と行が一つ」になった時に初めて「説」が「生きた真理」となる事は言うまでもない。
よって、情報に簡単に触れる事ができるようになった時代の者たちにとっては、誤解しないよう注意が必要だろう。
「絶えず精進・霊的努力し、怠ることなく歩んで行け」(釈迦[ブッダ]の弟子への最後の言葉の一つ)
<霊的盲目者らに誤解されがちな話題>
「行」といっても、肉体・精神・霊性など階層も方法も数多ある実践だが、いずれも正しい知が伴わなければ霊的堕落に導く危険性がある。
伝統的にこういった関連の事を伝える者たちは、この危険性を十分に知っており、注意を払っていたため、行については「奥義」となってしまう事が普通であり、明記/明言は避けられるか、適した状態にあるものには正しく伝わるような表現で伝えられる。
単に「想念が完全に無い状態」や、「世界との分離感が完全に無くなって一つにある状態」などは、まだ「通常状態」が維持できるようになった段階であり、ヴェーダ聖典で伝えようと試みられた「解脱・悟り・真我」は当然そのような浅い段階のものではない。
真に深まっていくと、ある時点で突如として強烈な光が全てに広がり、その光しかない状態となった後、一度それは全て胸の深部一点に吸収される。(これに似た体験が、まだ浅い段階でよく起こるがそれとは別物である事に注意)
その時点では無論、すでに肉体や霊体はないが、種(種子しゅうじ/しゅし)が精神深層に残っている場合(行が甘く完了していない場合)、(精神的に変容するにせよ)必ず通常の意識に少しずつ戻される。
実はそれ以降の方が、それ以前よりも深く貫徹した行がより不可欠となってくる。
各々の霊的質によって、その段階以降に必要な行の種類は様々だが、利他行や菩薩道といった類のものがより重要となる事は共通する。・・・ここまで話せば勘の良い方はいろいろな事が繋がるだろう・・・ ゆえに結局、イエス、ムハンマド、釈迦、ラマナ・マハルシやラーマ・クリシュナなども、それぞれにとって必要な行(分類するならジュニャーナヨーガ[ラマナ]、バクティヨーガ[イエス、ラーマクリシュナ]、カルマヨーガ[釈迦]など)を一生をかけて肉体が滅ぶまで継続した。
それぞれ自身の辿った道を基として、自身の根深い種を完全燃焼させ次の段階へ進むために、慈愛・菩薩行・利他行・法布施を始めとする自分にとって必要な行に、全てを捧げた。
こういった活動をしたからこそ、彼らは世に知られ歴史に名を残すこととなった。(直で抜けていく者たちが歴史に名を残す事はほとんどない。)
彼らの伝えた「極致」は、実際にはまだまだその先があるのだが、民衆の霊的段階を鑑みて、方便としての真理(とりあえずの所まで)を説いた。
種々の聖典・経典は、その記録や指南書、解釈などの記述。自我本位の受け取り方ではなく、その背景や想いを汲み取ってこそ、それら・彼らに敬意を払う事になる。
<「聖典や聖者」の言葉が、いつの間にか自我に利用されないために>
ここで表現されているのは無想三昧(想念のない極致Asamprajnata-Samadhi)ではなく、
それを超えた無種子三昧(あらゆる種子「我執・世界の展開の因」を行を深め消滅した極致Nirbija-Samadhi)に迫る段階における心象を綴っている。
よって、ラマナ・マハルシも指摘しているように、
「根深く潜在するあらゆる囚われ」はもちろん、「明け渡している・ただ在る」という状態すらも完全に種を焼き尽くすためには、
「人によって長短はあるが、必要な行と日常の行に誠実・真剣に長期間取り組まなければならない」(ラマナ言)のであって、
自我の罠に取り込まれ、「感覚や頭だけの悦」に浸らせるための内容ではない事に注意。
あのシリーズ(※「虚空の独り言」「悟りの書(入門)」)でも、行や瞑想を終えると戻ってしまうことを指摘し注意を促す箇所がある。
要は、「種が残っている状態では、また戻る事になるため、結局同じ渦中」ということ。
無種子三昧でも垣間見る程度では、精神的な「変容」があるが戻ってくるため、それぞれに必要な行に取り組んでいくことになる。
聖典・行・瞑想の放棄は、無想三昧のような霊的な段階としてはまだ早い段階ではなされない。中途の「早合点・勘違い」によって、「真我」ではなく「自我」の殻に閉じこもっていく道へ入って行けば「元の木阿弥」となる。
基礎がなってない状態で、軽率に導きもなく独学で瞑想で「精神/霊的に無防備状態」になると、想念(低級霊)が気付かず内に入り込んで囚われる事になる。
この時代(紀元前を含む)における真の救いや解脱とは、「自我や世界がない状態」になるだけではなく、さらにその源因・種に迫って完全に消滅する事を言う。
しかしそれも、単に始まりの終わりに過ぎない・・・
(以上、個人相談や質問への0返答より抜粋・編集。)
皆様のご健勝とご多幸を毎朝お祈り申し上げております。
全ての存在の不幸と無明の闇が私の魂に引き寄せられ、全ての私の幸と徳があらゆる存在の悟りの助けとして使われますように。
中世の神秘家マイスター・エックハルト
宗教の枠を超えて真理を見据えること。「魂の神殿を完全に空にしておく事」の内容概説
中世の神秘家マイスター・エックハルトMeister Eckhartの説教や論述をもとに雑談。
今回の主な内容:
宗教間の差の無意味さ、聖典に込められた意味、魂を空にしておく事。
神とは、イエスとは、神殿とは。
なぜイエスは神殿内で両替商や鳩売りを追い出したのか。
中世神秘家マイスター・エックハルトの人物像に迫る
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart)の人物像。
彼に関する講読シリーズ