- 瞑想とは何か?
- 至福への門
- 真理を求めて
- 心はなんと落ち着きのないものか!
- 大いなる仕事
- 瞑想のための環境
- 瞑想に必要な条件
- 瞑想に適した時間
- さあ祈ろう!
- 最初の課題
- そしてこう考えよ!
- いくつかの瞑想の例
- 目標に到達するには
- 注意せよ!
- 心の湖
- 心とその制御
- 注意せよ!
- ヨーギの兆候(サイン)
- 真珠貝のようであれ
- 忍耐
- 静穏の領域
- 瞑想による変容
- 瞑想の三つの段階
- どのように休息するか
- 行為は反作用をもたらす
- 瞑想の力
- 瞑想は科学だ
- パヴァリ・ババ 理想のヨーギ
- ブッダの伝説
- サマーディの歌
- 質疑応答
- 体験と実証
- いかに無執着であるか
- どのように心を観察するか
- 瞑想の実践的ヒント
- 超自然力
- サマーディの神秘
- オージャスの力
- 学習の秘密
- 心の力
- 神秘屋
- 中道に従え
- 王道
- 瞑想の効果
- 瞑想の時間
- 感情と瞑想
- あなた自身の生を読め
- ヨーガの八部門
- 境界
- 心とその側面
- 黙って瞑想せよ
瞑想とは何か?
瞑想とは何だろうか? 瞑想とはこのすべて〔の感覚的な誘惑〕に対抗できるようになる力である。生まれながらの性質はこう語りかけるかもしれない、「見なさい、美しいものがありますよ!」 私が見ないと今度はこう言ってくる、「いい匂いがしますよ。匂ってみなさい!」 自分の鼻に「匂うんじゃない」と言えば、鼻はそうしない。〔だが次には同じように〕「眼よ、見るんじゃない!」〔と言わなければならないのだ〕。自然の性質というのは、そういう卑劣なことをするのである。私の子供たちの1人を殺しておいて、こう言うのだ、「さあこいつめ、へたり込んで泣け! 奈落の底に落ちろ!」と。私は「自分はそんなことをしなくてもいいのだ」と言って跳び起きる。私は自由でなければならないのだ。あなた方も時にそれを試みなさい。……[瞑想では]一瞬で、この性質を変えることができる。さあ、もしその力を自分の中にもつとしたら、それは天国ではないだろうか? 自由ではないだろうか? それが瞑想の力である。
それはどのようにしたら手に入るのだろう? いくつもの異なる方法がある。それぞれの人の気質に合った独自の方法があるのだ。だが、一般原則はこうである——心を落ち着かせよ。心とは湖のようなもので、石が1つ1つ投げ込まれるたびに波を起こす。その波のせいで私たちは自分の姿が見えない。満月が湖面に映っていても、水面が乱れるので映った姿をはっきりと見えないのだ。それを静めよう。自然の性質が波を立たせることがないようにしよう。静かにしていれば、少したてばあなたのことを諦めてくれる。そのとき、私たちは自分が何ものであるかを知るのだ。すでに神はそのなかにあるのだが、心はあまりにも動揺し、常に感覚を追い回している。感覚を閉ざして[も]、あなた〔の心〕はぐるぐると回り続ける。今の瞬間、うまくいっていると思い、神に瞑想しようとしても、次の瞬間に、心は1分でロンドンに行ってしまう。それで、もしそこから引き離したとしても、ニューヨークへ飛んで昔そこでしたことを考えてしまうのだ。このような[波]が、瞑想という力によって止められるべきなのである。
至福への門
瞑想はその〔無限の歓び〕が私たちに開かれる門である。祈りや儀式、その他あらゆる形式の礼拝は、瞑想からしてみれば単なる幼稚園にすぎない。祈ったり、何かを捧げたり、すべてのことが人の霊性の力を向上させるという考え方があった。ある特定の言葉や花、神像や寺院、あるいは、灯明を振るといった儀式によって、心はその状態に達するのである。だがそうした心の状態は常に人間の魂の中にあって、他のどこかにあるのではない。[人々は]皆それを行っているのだ。知らず知らずのうちに人が行っていることを、意識的に行う。それが瞑想の力である。
ゆっくりと次第に自分を訓練していくべきである。冗談なんかではない。これは一日でできることではないし、数年あるいは幾多の生涯をかけてもできないことかもしれないのだ。だが気にするな! 努力を続けるのだ。意識的に、自ら進んで努力を続けなければならない。少しずつ少しずつ進歩するだろう。身についてきたと感じ始め、また実際に体得し始める。それは誰も取り去ることができないものである。誰にも奪われない富、誰にも壊せない財産、どんな不幸があっても、もはや傷付けることができない歓びである。
真理を求めて
ヨーガは、どうしたらこのような〔古代のキリストやブッダの経験と同じ〕気づきを得られるかを教える科学である。それを体感して初めて、人は宗教について語る意味がある。なぜ神の名のもとにこれほどまでの混乱があるのか? なぜこれほどまで争いや諍(いさか)いが起こるのか? 他のどんな理由にもまして、神の名のもとで多くの血が流されたのは、人々がその源泉までたどり着くことがなかったからである。先祖たちの風習に知的に同意するだけで満足し、他の人たちにも同じようにすることを望んだのだ。もし魂というものを体感していないなら、どんな権利があって自分に魂があると言えるのだろうか? 神を見ていないなら、神が存在するとどうして言えるのか? もし神がいるなら、私たちは神を見なければならない。魂があるなら、それを確かめなければならない。そうでなければ信じないほうがましだ。偽善者でいるよりは、率直な無神論者でいるほうがましである。
人は真理を求め、自ら真理を体験することを求める。それをつかんだとき、悟ったとき、ハートの中心の内奥で感じたとき、そのとき初めてすべての疑いは消え失せ、すべての闇は霧散し、曲がれるすべてのものは直されるだろう——ヴェーダ〔聖典〕はそう明言している。
心はなんと落ち着きのないものか!
心の制御のなんと難しいことか! 心は気がおかしくなった猿になぞらえられてきた。他の猿と同様、生まれながらに落ち着きのない一匹の猿がいた。それだけではまだ不十分だと思ったのか、誰かがその猿にたらふくワインを飲ませると、さらにもっと落ち着きがなくなった。それからサソリが猿を刺した。人がサソリに刺された時のように一日中あたりを跳ね回り、それでかわいそうな猿はこれまでで最悪の状態に陥った。この悲惨な状態に追い討ちをかけて、悪霊がそのなかに入り込んだ。どう表現すればこの猿の抑えがたい落ち着きのなさを言い表せるだろうか? 人の心はその猿のようなものである。生まれながらの性質で常に動き回っている。それで欲望というワインに酔うと混乱をさらに増す。欲望が取り憑いたあとは、他人の成功に嫉妬するサソリのひと刺しがやってくる。それで最後にプライドいう悪霊が心に入り込み、自分を極めて重要な人物だと思い込むのである。心とはそのようなものだ。なんと手に負えないことだろう!
大いなる仕事
ヨーギー(ヨーガ行者)たちによれば、3つの主要な神経の流れがある。1つは彼らがイダーと呼ぶものであり、もう一方はピンガラー、そしてその中間にあるものがスシュムナーだが、それらはすべて脊椎の中にある。イダーとピンガラーは、それぞれ左と右にある神経の集まりである。一方、真ん中のスシュムナーは空洞であり、神経の集まりではない。このスシュムナーは〔煩悩がつまって〕閉じており、一般の人にとっては機能していない。なぜならイダーとピンガラーを通じてのみ人は活動しているからである。これらの神経を通じて継続的に流れが上下に移動し、それぞれ体の異なる器官に走るその他の神経を通じて、体全体に秩序をもたらしている。
私たちがしなければならないことは膨大にあるが、何よりもまず、自分にとって当たり前になってしまっている膨大な量の沈んだ思いを制御しようとしなければならない。悪い行いは明らかに意識できるレベルにあるが、その悪い行いを生み出した原因はもっと遥か深く、無意識で目に見えない、それゆえにもっと影響力の強い領域にある。
まず最初に学ばねばならないのは、無意識を制御することである。次に、意識というものを超えなければならない。そして、このことから2段階のことを行わなければならないということが分かる。初めにイダーとピンガラー、2つのすでにある通常の流れを適切に機能させることで、潜在的な意識の働きを制御すること。そして2つ目に、意識〔そのもの〕でさえも超えていくことである。
自らの内に集中することを長らく実践したあと、この真実〔の境地〕に到達した者だけがヨーギーなのである。スシュムナーは今や開き、それまでこの新しい経路に決して入らなかった流れがそこに道を見出し、次第に上昇して(私たちが比喩的な表現で言うところの)さまざまな蓮華の中心を通って、最後に脳天に達する。そのとき、ヨーギーは自分が本当は何であるか、すなわち神そのものであるということを自覚するのである。
瞑想のための環境
余裕がある人は、この〔瞑想を〕行うためだけの部屋をもつほうが良いだろう。その部屋では眠らず、聖なるものに保ちなさい。入浴して体と心を完全にきれいにするまでは部屋に入ってはいけません。その部屋には常に花を絶やさないように。それがヨーギー(ヨーガ行者)にとって最も好ましい環境である。心地よい絵もよいでしょう。朝晩にお香を焚きなさい。その部屋では口論をせず、怒らず、神聖でない思いをもたないように。あなたと同じ思いをもつ人だけに入ることを許しなさい。そうすれば、次第に聖なる雰囲気が部屋に生まれ、落ち込んでいたり、悲しい気持ちだったり、疑いがあったり、心が乱されている時も、その部屋に入っただけで心は静まるだろう。これが寺院や教会というものの考え方なのである。今でもいくつかの寺院や教会ではそれを確認することができるが、大多数のところでは考え方そのものが失われている。その考え方とは、場所に神聖な気を保つことで、その場が輝かしいものとなり、そしてその状態のままであり続けるというものである。部屋を別でもつ余裕がない人は、どこでも自分が好む場所で行えばよろしい。
瞑想に必要な条件
火があるところ、あるいは水の中や、枯れ葉が散らばっている地面の上、多くのアリ塚があるところ、野生動物がいたり危険があるところ、四つ角や、騒音がひどいところ、悪人がたくさんいるところでは、ヨーガを行うべきではない。これは特にインドに当てはまることである。体がとてもだるかったり病気の時や、心がみじめで悲しみに満ちている時は行ってはならない。人目に触れず、人が来て邪魔されることがない場所へ行きなさい。汚れた場所を選んではいけません。それよりも美しい場所、美しい自宅の部屋を選びなさい。実践を行う時には、まず古代のすべてのヨーギー(ヨーガ行者)たち、あなた自身のグル(霊性の師)そして神に敬意をもって礼拝してから始めなさい。
瞑想に適した時間
少なくとも毎日2回行わなくてはならない。そして最も良い時間は朝と夕方に向かう時間帯である。夜が過ぎて日中に向かうとき、そして日中から夜に向かうとき、比較的静まった心境がおとずれる。早朝と夕方の早い時間は心が静まる2つの時間帯だ。それらの時間には、体も同じように静まる傾向がある。この自然の状況を利用して、その時間に始めるべきである。実践するまでは物を食べないように習慣づけなさい。そうすれば、空腹というだけで怠惰な気持ちがなくなるだろう。インドでは実践や礼拝を行うまでは決して食べないように子供に教育する。そうすると、やがてそれが自然になるのだ。沐浴をして実践をするまでは空腹を感じないようになるのである。
さあ祈ろう!
心の中でこう繰り返しなさい。
すべてのものが幸せでありますように。
すべてのものが平安でありますように。
すべてのものが至福にありますように。
東と西と北と南にそれを行いなさい。そうすればするほど、あなた自身もいっそう気持ちが晴れやかになるだろう。最終的に、自分を健全にする最も簡単な方法は、他のものたちが健やかであるのを目にすることだと分かるだろう。それを行ってから、神を信じる者は祈るべきである——金のためでなく、健康のためでなく、天国のためでなく、智慧と光を求めて祈りなさい。その他の祈りはどれも利己的なものである。
最初の課題
しばらくのあいだ座って、心を動き回らせてみよう。心の思いは常にふつふつと沸き起こっている。それは跳ね回るあの猿のようである。猿にはできるだけ跳ねさせて、ただじっと観察しなさい。知は力なりと格言は言うが、それは本当である。心が何をしているのか知って初めて、それを制御することができるのだ。心に自由を与えよ。多くのおぞましい思いが浮かぶかもしれない。自分がそんなことを思うなんてと驚きを覚えるだろう。だが、心の突飛な振舞いは日ごとに激しさを和らげていき、日を追うごとに心が静かになっていくことが分かるだろう。
議論やその他の混乱をきたすものはすべて棄てなさい。無味乾燥なわけのわからない知的な言葉に何があるというのか? 心がバランスを失って乱されるだけである。もっと精妙な次元のことが理解されなければならない。話をすることでそれが起こるだろうか? だから無駄話はすべてやめなさい。悟りにある人によって書かれた本だけを読みなさい。
そしてこう考えよ!
自分自身の肉体について思い、私の体は強く、健康なのだと考えよ。肉体はあなたが持つ最良の道具である。自分の体は金剛石と同じくらい強固なのだ、私はこの肉体の助けを借りて人生の大海を渡るのだと思いなさい。自由は弱い人には決して到達できない。すべての弱さを棄てよ。自分の体に対して、私の体は強いのだと言い聞かせよ。自分の心に対して、私の心は強いのだと言うのだ。そして、自己に対する限りない信仰と希望を持つのである。
いくつかの瞑想の例
頭頂の数インチ上に蓮の花を思い浮かべ、その花の中心部分は徳であり、茎の部分は智慧であると思いなさい。蓮華にある8つの花びらはヨーギー(ヨーガ行者)が持つ8つの力〔八大神通力〕である。中にある雄しべと雌しべは放棄である。ヨーギーは外面的な力を受け取らなければ、解脱へと向かう。だから8つの蓮の花弁は8つの力ではあるが、その中にある雄しべと雌しべは強烈な放棄の思いであり、そういった力すべての放棄である。蓮の花の中に思い浮かべるのは、金色に輝く存在、全能の者、形なき者である。オームという名であり、言葉で語ることができず、燦然と輝く光に囲まれている。それに瞑想しなさい。
もう1つ別の瞑想がある。ハート(心臓)の中に空間を思い浮かべ、その空間の真ん中に炎が燃えていると考える。その炎はあなた自身の魂であり、炎の内側にはまた別の燦然と輝く光がある。それがあなたの魂の中の魂であり、神なのであると思いなさい。ハートの中にそれを瞑想せよ。
目標に到達するには
生きるか死ぬかなど問題ではない。結果など考えず、飛び込んで努めなければならない。あなたがもし十分に勇敢なら、6カ月で完全なヨーギー(ヨーガ行者)になるだろう。だが、ほんの少しだけそれを取り上げてみたり、それ以外のあらゆることを少しずつつまみ食いするようでは、進歩は見込めない。単に一連のレッスンを取るだけでは何の意味もない。
成功に至るには、強烈な粘り強さと、強い意志をもたなければならない。「私は大海を飲み干すのだ」と不屈の魂は言う。「私の意志次第で山々も粉々になるだろう」と。そのような気力、そのような意志をもって懸命に努めなさい。そうすれば〔真実のヨーギーになり、最高の境地に至るという〕目標に到達するだろう。
注意せよ!
あらゆる運動は円を描いている。1つの石を拾い上げて、それを空中へと投げ入れ、それから十分に長い時間を過ごすとしよう。何にもぶつからない場合、その石はあなたの手元に正確に戻ってくるだろう。直線は無限に延長されれば、円を描いて完結するに違いない。それによれば、人の運命がいつも前へ前へと進歩を続け、留まることがないと考えるのは、理に適わないことである。その〔進歩に関する〕主題とはまた違うが、この考え方は、憎むことなく愛せよという倫理的な原則を説明しているといえるかもしれない。なぜなら、電流に関する現代の理論では、電力が発電機から生み出されると、一周して再び発電機へと戻ってくるというのだが、そのように、憎しみと愛も同じ動きを見せるからである。憎しみと愛は、その源に戻ってくるに違いない。それゆえ、誰も憎んではいけないのだ。あなたから生まれた憎しみは、結局あなたの元に戻ってくるのだから。もし愛を抱くならば、その愛はあなたの元に戻ってくる。そうしてその円を完成させるだろう。
心の湖
湖の底が見えないのは、湖面がさざ波に覆われているからだ。底をちらっとでも見ることができるのは、波が静まり、水面が穏やかな時だけである。水が濁っていたり、いつもかき乱されていれば、底を見ることはない。水が澄んでいて波がない場合に、底を見るのである。湖の底というのは私たち自身の真の自己である。湖はチッタ〔心〕であり、波はヴリッティ〔活動・思い計らい〕である。
その上で、心には3つの状態がある。そのうちの1つは、タマスと呼ばれる暗い状態である。野獣や愚者の中に見つけられるもので、傷つける働きのみを行う。それ以外の考えは、その状態にある心に入り込むことがないのだ。それから、ラジャスという活動的な心の状態がある。その働きの主な動機は力と快楽である。「私は力を持って、他の人を支配しよう」〔と思う〕。それから、サットヴァと呼ばれる静けさや平穏の状態がある。そこでは波が収まり、心の湖は水が澄みきった状態になるのだ。
心とその制御
瞑想はこうした波が起こるのを制御する偉大な方法の1つである。瞑想によって、このような波を抑えることができる。そして何日も何カ月も何年も瞑想を続けて、それが習慣になり、やろうと思わなくても思わず行うようになると、怒りや憎しみは制御され、食い止められるようになるのである。
注意せよ!
信仰深くなっていることの最初のサインは、気持ちが陽気になっていくことである。暗い気持ちでいるのは胃の消化不良ではあっても、宗教ではない。
ヨーギー(ヨーガ行者)にとって、すべてはこの上ない喜び(至福)であり、目にする顔はどれも楽しい気持ちを運んでくる。それが徳の高い人の兆候なのだ。不幸は罪から生じるのであって、それ以外に原因はない。曇った顔に何の用があるだろうか? 恐ろしいことだ。もし暗い顔をしていたら、その日は外出せずに部屋に閉じこもっていた方がいい。何の権利があって、この病を世界に持ち出すというのか?
ヨーギの兆候(サイン)
「彼は誰も憎まない、彼は全ての友だ、彼は全てに慈悲深い、彼は何も所持しない、彼は利己主義(エゴイズム)から自由だ、彼は苦痛と快感に公平だ、彼は寛容だ、彼はいつも満足している、彼はいつもヨーガの中で活動する、彼の自己は制御されている、彼の意志は堅固だ、彼の心と知性は私(シュリー・クリシュナ)に捧げられている、そのような人は私の愛するバクタ(信仰者)だ。彼からの害は何もない、彼は他人に害されることはない、彼は喜び、怒り、恐れ、不安から自由だ、そのような人は私の愛する人だ。彼は何事にも依存しない、彼は純粋で活動的だ、彼は善が来ても悪が来ても気にしない、彼は惨めにはならない、彼は自分のための全ての努力を放棄している、彼は静かな思慮深い心で、賞賛と非難に公平だ、彼はどんな些細ささいな出会いでも幸福であり、全世界が自分の家なので家を持たない、そして彼は自分の理念に堅固だ、そのような人が私の愛するバクタだ。」。
そのような人だけがヨーギとなるのだ。
真珠貝のようであれ
もしスヴァティ星が支配位に上昇するときに雨が降り、その一滴が牡蠣(かき)の内部に落ちれば、その一滴は真珠になるというインドの美しい寓話がある。牡蠣(かき)たちはこのことを知り、その星が輝くときには海の表面に行き、その貴重な雨の一滴を捕えようと待つのだ。雨の滴(しずく)が牡蠣(かき)の内部に落ちるとき、牡蠣(かき)たちは急いでその貝殻を閉じ、海の底に潜る、そしてそこで雨の一滴が真珠になるまで忍耐強く成育させるのだ。私たちもそのようであるべきだ。最初に聞き、次に理解し、次に、全ての娯楽から離れ、あなたの心を外の影響から閉ざし、あなたの内部の真実の成長のために、自身を捧げよ。
忍耐
ナーラダと呼ばれる神の賢者がいた。人間の中にも偉大なヨーギたち、賢者たちがいるように、神々の中にも偉大なヨーギたちがいるのだ。ナーラダは実に偉大で、素晴らしいヨーギだった。彼はあらゆる場所を旅していた。ある日ナーラダは森を通り抜けていた、するとある男が白アリが彼の周囲に大きなアリ塚を作るまでに瞑想し続けて来た姿を見た ── 彼は長い間その姿勢で座り続けていたのだった。彼はナーラダに言った、「あなたはどちらに行かれますか?」、ナーラダは答えた、「私は天国に行くところです。」と。「それでは神にお尋ねください、いつ神の慈悲が私に授与され、いつ私は自由が達成できるのかを。」。ナーラダがさらに歩いて行くと、別の男を見た。彼は跳びはね、歌い、踊りながら言った、「おお、ナーラダさま、あなたはどこに行かれますか?」と。彼の声と態度は熱狂的だった。ナーラダは、「私は天国に行くところです。」と言った。「それでは、私がいつ自由になるかをお尋ねください。」。ナーラダは先へと進んで行った。
やがてナーラダは再び同じ道にやって来た、そこには周囲にアリ塚のできた男が瞑想していた。彼は言った、「おお、ナーラダさま、主(しゅ)に私のことを尋ねていただけましたか?」「もちろんだよ。」「主(しゅ)は何とおっしゃいましたか?」「主(しゅ)は私に、あなたがあと4回転生すれば自由に達すると言われましたよ。」。するとその男は泣き出し、嘆き悲しんで言った、「私はアリ塚が周りにできるほど瞑想しました、それなのにあと4回も転生しなければならないとは!」。
ナーラダは別の男のところに行った。「あなたは私の質問を尋ねていただけましたか?」「ああ、もちろんだよ。このタマリンドの木が見えますか?私はあなたに告げねばなりません、その木のたくさんの葉の数だけ、あなたは何回も転生し、そのあとで自由を達成するでしょう。」。その男は喜んで踊り始めた、そして言った、「私はそんな短い時間で自由になれるのだ!」と。
声が聞こえた、「私の子供よ、お前はこの瞬間に自由になる。」。それが彼の忍耐の報酬だった。彼はそれらの転生全てを通じて実践する準備ができており、彼を落胆させるものは何もなかったのだ。
静穏の領域
霊性の生活での最大の助けは瞑想だ。瞑想により、私たちは全ての物質的状態を破棄し、自身の神性を感じるのだ。瞑想において、私たちはどんな外界の助けにも依存しない。魂との接触は、最も陰気な場所でさえも最も輝かしい色彩で彩ることができる。それは邪悪なものを神聖にする ── そして全ての敵意、全ての利己性を消滅させるのだ。身体への思いが少なければ少ないほど、より善い。なぜなら私たちを下降させるのは身体だからだ。それは執着、同一化であり、それらが私たちを不幸にするのだ。それがその秘密だ。私は精神(スピリット)であり身体ではないと思え、そしてこの宇宙全体とその全ての関係性、その善と悪の全ては、連続する絵画 ── 画布の上の光景そのものであり ── 私はその目撃者なのだと思え。
瞑想による変容
ある若者がいた、彼はどうしても自分の家族を養うことができなかった。彼は強固で活力に満ちていた、最終的に、彼は本街道の盗賊となった。彼は街道で人々を襲い強奪した、そしてその金で自分の父、母、妻と子供たちを養ったのだった。この状況は続いたが、ある日ナーラダと呼ばれるある偉大な聖者が街道を通り掛かり、その盗賊はナーラダを襲った。
その賢者は盗賊に尋ねた、「なぜあなたは私を襲うのですか?人を襲い、殺すのは大きな罪です。なぜあなたはこのような罪を犯すのですか?」と。盗賊は言った、「なぜだって、俺はこの金(かね)で自分の家族を養うんだ。」。「さて」と賢者は言った、「あなたは、家族があなたの罪も分かち合うとお考えですか?」。「もちろんそうだ」と盗賊は答えた。「それは宜しい」と賢者は言った、「では私が逃げないようにここに縛りつけ、あなたは家に帰って、あなたが得たお金と同様に、家族が罪も分かち合っているかどうかを家族に尋ねなさい。」。
その男は父のもとに帰り、尋ねた、「お父さん、私がどのようにしてあなたを養っているかをご存知ですか?」。父は答えた、「いいや、私は知らない。」。「私は盗賊です、私は人々を殺し、強奪します。」「何だって!息子よ、お前はそんなことをしているのか?出て行け!追放だ!」。男は母のもとに行き尋ねた、「お母さん、私がどのようにしてあなたを養っているのかご存知ですか?」「いいえ」と母は答えた。「強奪と殺人によってです。」「何て恐ろしいことを!」と母は叫んだ。「お母さん、私の罪を分かち合ってくれますか?」と息子は言った。「なぜそうしなきゃならないんだい、私は強奪など決してしたことなんかないよ。」と母は答えた。
そのあと、男は妻の所に行って尋ねた、「お前は俺が家族全員をどのように養っているのか知っているか?」「いいえ」と彼女は答えた。「なぜ俺が街道に行くか」と男は言った、「そして何年間も人々から強奪して来たか。それはお前たち全員を養うためだった。俺が今知りたいのは、お前が俺の罪を分かち合う覚悟はあるかと言うことだ。」「とんでもありません。あなたは私の夫ですよ、私を養うのはあなたの義務ではありませんか。」。
強盗の目は覚めた。「それが世間なのか ── 俺の最も親密な家族でさえ、俺が強盗をして来たことを、俺の宿命を分かち合おうとはしない。」。男は賢者を縛っていた場所に戻り、賢者の縄を解き、彼の足もとにひれ伏し、全てを物語ってから言った、「お救いください!私はどうすればよいのですか?」。
賢者は言った、「あなたの現在の生き方を止めなさい。あなたは、自分の家族が本当はあなたを愛していないことを知りました、ですからこれら全ての妄想を捨てなさい。あなたの家族はあなたの富を分かち合うでしょう、しかしあなたが何も持っていなければあなたを見捨てることでしょう。あなたの悪を分かち合う人は誰もいません、しかしあなたの善は全ての人が分かち合うでしょう。ですから神を礼拝なさい、神だけが善いことをしても悪いことをしても私たちを支えてくれるのです。神は決して私たちを見捨てません、なぜなら愛は決して堕落させず、商取引ではないもの、利己性ではないものを知っているからです。」。
そのあと賢者は男に、どのように神を礼拝するかを教えた。この男は全てを捨てて、森の中に入って行った。森の中で、彼は自身を完全に忘れるほどまでに祈り瞑想したため、アリたちがやって来て、彼の周りにアリ塚を作ったけれど、彼は全く気づかなかった。
長い年月が経過した後、ある声が聞こえた、「おお、賢者よ、立ち上がれ!」。男は立ち上がり叫んだ、「賢者だって?俺は強盗だぞ!」「もはや強盗ではない」とその声は答えた、「汝は清らかな見者だ。汝の古い名前は消え去った。しかし今、汝の瞑想があまりにも深く、周りのアリ塚にさえ気づかなかったほど、汝の瞑想があまりにも深く偉大であった、それゆえに今後、汝の名前はヴァールミーキ ── アリ塚に誕生した者、となるであろう。」。そのように男は賢者となったのだった。
*ヴァールミーキは「ラーマーヤナ(ラーマ王子の物語)」の作者。
瞑想の三つの段階
瞑想には三つの段階がある。第一番目はダーラナーと呼ばれ、心を一つの対象に集中することだ。私が心を、このコップ以外の全ての対象を除外させ、このコップに集中しようと試みる。しかし心は揺れ動いている。心が強くなり、それほど揺れ動かなくなるとき、それはディヤーナ、瞑想と呼ばれる。そのあと、コップと私との相違が消滅 ── サマーディつまり融合する、さらに高度な状態がある。心とコップは一体となる。私はどんな相違も見ない。全ての感覚器官は停止し、異なる感覚器官の異なる回路を通じて活動して来た全ての力は、心に集中する。そのあと、このコップは完全に心の力の支配下となる。これは実現されねばならない。これはヨーギたちによって行われる、とてつもない実践なのだ。
どのように休息するか
瞑想とは、心をそれ自体に帰還させる方法だ。心は全ての想念の波を停止し、世界も停止する。あなたの意識は拡大する。あなたが瞑想するときには、常に成長を保持するだろう。徐々に、少しより厳しく実践せよ、そうすれば瞑想はやって来る。あなたは身体やその他のことを感じない。あなたが瞑想の時間を終えたとき、あなたの生活でかつて体験したことのない、最も素晴らしい休息を得る。瞑想は、いつもあなたの心身組織に休息を与える唯一の方法だ。最も深い睡眠でさえ、瞑想のような休息は与えないだろう。心は、最も深い睡眠のときでさえ跳びはねている。数分間の瞑想でも、あなたの頭脳はほとんど停止する。ほんのわずかな活力も維持されるのだ。あなたは身体を忘れる。あなたは身体が細かく切り刻まれても、全く感じない。あなたは素晴らしい喜びを感じる。あなたはとても軽くなる。これが、私たちが瞑想で得る完全な休息だ。
行為は反作用をもたらす
自然の全ての現象において、少なくともあなたが半分は寄与し、自然が半分をもたらす。もしあなたの半分を取り去れば、物事は停止しなければならない。全ての行為(アクション)には均等な反作用(リアクション)がある。もしある男が私を殴り傷つけるなら、それはその男の行為と私の身体の反応(リアクション)だ。
他の例を取り上げよう。あなたは湖の滑らかな表面に石を投げ続ける。あなたが投げるどの石にも、その反作用が起こる。石は湖の小さな波に覆われる。同様に、外界の物事は心の湖に投げる石のようだ。だから、私たちは実際には外界は見ない。私たちはその波だけを見ているのだ。
瞑想の力
瞑想の力は、私たちに全てをもたらす。もしあなたが自然を支配する力を得たいなら、瞑想を通じてそれができる。瞑想の力を通じて、今日全ての科学的事実は発見されたのだ。科学者たちはその主題を学び、彼ら自身の個人性その他を全て忘れる、そのあと偉大な事実は閃光のようにやって来るのだ。ある人々はそれを霊感(インスピレーション)と考えている。
霊感(インスピレーション)は存在しない。どんな霊感(インスピレーション)が生じても、それはすでに心の内部の原因からやって来た結果だ。ある日、結果である閃(ひらめ)きがやって来る!人々の過去の活動がその原因だったのだ。
あなたはまたそれらの閃(ひらめ)きに瞑想の力 ── 強度の思考を見る。彼らは自身の魂を攪拌する。偉大な真実がその表面に浮かび上がり、顕現するのだ。それだから瞑想の実践は、知識の偉大な科学的方法だ。
瞑想は科学だ
何が存在しようと、それらは一つだ。多数は存在できない。それが、科学と知識の意味するものだ。無知は多数を見る。知識は一つを理解する。多数を一つへと減少させることが科学だ。宇宙全体は一つへと論証されて来た。その科学がヴェーダーンタの科学と呼ばれるものだ。全宇宙は一つなのだ。
私たちは現在これら全ての変態 ── 私たちが五つの要素、固体、液体、気体、発光体、エーテル体と呼ぶもの、を持ちそれらを見る。瞑想は、究極の実在リアリティ ── 精神(スピリット)へと全てを溶解する実践だ。固体は液体の中に溶け、液体は気体に、気体はエーテル体に、それからエーテル体は心に、そして心も溶け去るだろう。全ては精神(スピリット)なのだ。
瞑想は、想像(イマジネーション)のプロセスによりやって来る。あなたはこれらの構成要素の浄化のプロセス全てを通じて進む ── 一つの要素を他の要素に溶解し、それを次の高度な要素へ、それを心へ、それを精神(スピリット)へ、そしてあなたは精神(スピリット)になる。
ここに大量の粘土がある。その粘土で私は小さなネズミを作り、あなたは小さな象を作る。両方とも粘土だ。両方の外形を壊して粘土に戻す。それらは本来一つなのだ。
パヴァリ・ババ 理想のヨーギ
パヴァリ・ババのアシュラマに盗みに行った泥棒のことを誰もが伝え聞いている、その泥棒は聖者の姿を見て驚き、彼が盗んだ品々の袋をそこに置き去りにして逃げ去った。何と聖者は、その袋を持って泥棒の後を追った、そして数マイルも激しく走った後に泥棒に到着した。聖者は袋を泥棒の足元に置き、合掌して涙を流し、自身の妨害を詫びた、そしてその品々を受け取るよう強く求めたのだ、なぜならそれらの品々は泥棒に属しており、聖者には属していなかったからだ。
私たちは信頼できる筋より、かつて彼がどのようにコブラに咬まれたかを聞いている。彼は数時間死んだようだったが、生き返った。彼の友人たちがそのことを彼に尋ねると、そのコブラは「最愛のお方(*神)からの使者だった」とだけ答えた。
彼の偉大な特色の一つは、仕事に着手しているとき、それがどんな些細(ささい)なことであれ、完全に没入することだった。シュリー・ラグナートジー(彼の理想神であるラーマチャンドラ)の礼拝と、銅製の壺の洗浄に、同じ量の配慮と注意を注いだ ── 彼自身が、かつて私たちに話した仕事の秘密、「手段が、まるで結果自体のように、愛され配慮されるべきだ。」の最良の実例だった。
この筆者(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)は、聖者が世間を助けるために洞窟から出ない理由を尋ねる機会があった。彼は次のように答えた、「あなたは物質的援助だけが唯一の助けだとお考えですか?身体の活動なしに、一つの心が他の心を助けることは不可能でしょうか?」と。
ブッダの伝説
ブッダが誕生したとき、彼はあまりにも清らかで、誰もが彼の顔を遠方から眺め、即座に儀式的宗教を廃止し、僧侶になって救済された。そこで神々は会合を開いた。神々は言った、「私たちは破滅した。」と。なぜなら神々のほとんどは、儀式によって生きていたからだ。これらの供儀(くぎ)は神々のところに行くはずだったが、全て消滅してしまった。神々は飢えて死んでいった、その理由は彼らの力が消滅したからだ。
そこで神々は言った、「私たちは、とにかく、この男を消滅させねばならない。彼は私たちにはあまりにも清らか過ぎる。」。そのあと神々はブッダのもとにやって来て言った、「さて、私たちはあなたに質問があります。私たちは偉大な供儀を行いたいのです、それは巨大な火を燃やすことなのですが、私たちはその火を燃やす清らかな場所を世界中探しましたが、見つかりませんでした、しかし今その場所を見つけました。もしあなたが仰向けになっていただければ、その胸の上で巨大な火を燃やしましょう。」。「宜しいでしょう」とブッダは言った、「さあそのようにしてください」。
神々はブッダの胸の上で高く火を燃やした、神々はブッダが死んだと思ったが、死ななかった。神々は言った、「私たちは失敗した」。そして全ての神々はブッダを打ちのめした。しかし、仏陀を殺すことはできなかった。下方から声が聞こえた、「あなたがたはなぜこれらの空しい行為を行うのか?」。
「あなた(ブッダ)を見るものは誰でも清められ、救済される、そして私たち(神々)を礼拝する者は誰もいない」。
「それに、あなた方の行為は空しい、なぜなら清らかさは決して殺せないからだ」。
サマーディの歌
見よ!太陽も、美しい月もない、
全ての光は、偉大なる虚空に消滅し
表象(イメージ)の宇宙が影のように浮遊する。
心の虚空に渦巻き、浮遊する
つかの間の宇宙は、現れて浮遊し、
再び沈む、「私」の潮流の中で、絶え間なく
ゆっくり、ゆっくり、無数の影は
原初の子宮へと潜入し、絶え間なく流れる、
それは唯一の流れ、「私は在る」「私は在る」。
見よ!その流れさえもはや停止した、
虚空は虚空へと溶解した ── 言葉と心を超越して!
それを誰のハートが理解できようか。
質疑応答
質問 : 聖師(グル)とは誰でしょうか?
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ : あなたの過去と未来を告げることのできる人が聖師(グル)だ。
質問 : どのようにしてバクティ(信仰)を得ることができるでしょうか?
スワミジー : バクティはあなたの内部にある、性欲と金銭欲の覆いだけがバクティを覆っている、その覆いが除去されるや否や、バクティは自ずから顕現するだろう。
質問 : クンダリニー(霊的エネルギー)は、実際に肉体内に存在していますか?
スワミジー : シュリー・ラーマクリシュナは常に言っていた、ヨーギが蓮華と呼ぶものは人間の身体内には実際には存在していない、しかし蓮華はヨーガの力によって個人内に創造される、と。
質問 : 人は神像の礼拝によってムクティ(解脱)を達成できますか?
スワミジー : 神像の礼拝は直接的にはムクティを与えない。それは間接的な原因として、解脱を助けるだろう。神像の礼拝は非難されるべきではない、多くの点で、それはアドヴァイタ(非二元)の覚醒のために心を準備するのだ、アドヴァイタだけが人間を完全にする。
質問 : ムクティとは何ですか?
スワミジー : ムクティとは完全な自由を意味する ── 善と悪の束縛からの自由だ。金の鎖は鉄の鎖と同様に鎖だ。シュリー・ラーマクリシュナは常に言っていた、足に刺さったとげを抜くには別のとげが必要だ、刺さったとげが取れたら両方とも捨てる、と。だから悪い傾向性は善い傾向性によって無効にさせるが、そのあと、善い傾向性もまた克服しなければならないのだ。
質問 : どのようにヴェーダーンタは覚醒できますか?
スワミジー : 「聴聞、熟考、瞑想」によってだ。聴聞はサド・グル(真の聖師(グル))から聞かねばならない。もしその人が正規の弟子でなくても、適切な探究者であれば、覚醒したサド・グルの言葉を聴聞せよ。
質問 : 瞑想はどこで ── 身体の内部で、あるいは外部で行うべきですか?心は内部に、あるいは外部に保持するべきですか?
スワミジー : 瞑想は内部で行うべきだ。心はここそこと彷徨(さまよ)うので、私たちが心の領域に到達する前には長い時間がかかるだろう。さて、私たちの努力は身体に関してだ。実践者が身体の姿勢に完全な安定性を獲得するとき、そのあとでのみ彼は心に関する努力を開始するのだ。アーサナ(姿勢)は克服され、彼の手足は不動になり、望む時間坐ることができるのだ。
質問 : ときどきジャパ(マントラの復唱)の実践に疲れてしまいます。そのときジャパを続けるべきですか、それとも代わりに善い本を読むべきですか?
スワミジー : 実践者がジャパに疲れるのには二つの理由がある。あるときは実践者の脳が疲労するときであり、別なときには怠惰の結果だ。もし前者の場合、実践者はしばらくジャパを止めるべきだ、なぜならそのまま持続すれば、ときどき幻覚を見るか、狂気その他の結果を招くからだ。もし後者であるなら、ジャパを継続させるために、心を強いるべきだ。
質問 : 心が彷徨っても、ジャパを長い時間実践することは良いことですか?
スワミジー : そうだ。ある人が狂暴な馬を、いつも背中の鞍に坐り続けて制御するようなものだ。
質問 : 祈りの効果とは何ですか?
スワミジー : 祈りによって、実践者の精妙な力が簡単に目覚める、もし意識的に実践されれば、全ての願いは祈りによって叶うことだろう、しかし無意識に行われれば、たぶん10分の1しか叶わないだろう。
質問 : あなたはバクティ・ヨーガ(*スワミジーの著書)の中に、もし弱い身体の男がヨーガを実践すれば、途轍もない反動がやって来ると書いています。ではどうすればよいのでしょう?
スワミジー : もし自己覚醒のために君が死ぬとしても、何を恐れるのだ!人間は学びやその他多くの事柄のために死ぬのを恐れている、なぜ君は宗教のために死ぬのを恐れるのだ?
体験と実証
スワミジー : ある日、ドッキネッショル(*カーリー女神)寺院の庭で、シュリー・ラーマクリシュナの手が私の心臓に触れた、まず最初に家 ── 部屋、ドア、窓、ヴェランダ ── 木、太陽、月 ── 全てが飛び去り、いわば粉々になり ── 原子や分子へと分解した ── そして最終的にアーカーシャ(空間)へと溶解したのだ。徐々にアーカーシャもまた消滅し、次に私のエゴ意識も消滅した、そのあと何が起こったのかを思い出すことはできない。私は最初は驚いた。その状態から戻ると、私は家、ドア、窓、ヴェランダ、その他をまた見始めたのだった。別の機会に、私はアメリカの湖のほとりで、全く同じ覚醒を体験した。
弟子: その状態は脳の錯乱によって生じたものではないのですか?私にはそのような状態の幸福を理解できません。
スワミジー : 脳の錯乱だって!それがどんな病気からの精神錯乱の結果でもなく、飲酒の泥酔による結果でもなく、様々な怪しい呼吸法によって生じる妄想の結果でもなく ── 完全な健康と知性を持つ正常な人間に生じるとき、君はそれをどう呼ぶのだろうか?さらに、この体験はヴェーダと完全に調和するのだ。それはまた、霊感に満ちたリシ (賢者)たちやアーチャーリヤ(教師)たちの覚醒の言葉とも一致するのだよ。
いかに無執着であるか
私たちの全ての苦しみのほとんどは、無執着の力を持っていないことが原因だ。それだから、集中の進歩に沿って、私たちは無執着の力を発展させねばならないのだ。私たちは一つの対象に専(もっぱ)ら心を執着させるだけではなく、瞬時の注意でその対象から離れ、別の対象にも集中できなければならない。これら二つ(*執着と無執着)は、無執着を確実にするために一緒に発展させるべきだ。
これが心の体系的な発展だ。私にとって教育の本質とは、心の集中であり、事柄の収集ではない。もし私が再び自身を教育し、物事を学ばなければならないなら、私は全く物事を学ぼうとはしないだろう。私は集中力と無執着を発展させ、そのあと完全な手段(*心の集中力)により、自由自在に事実を収集するだろう。
私たちは自身の心を対象物に集中させるべきだ。私たちの心が対象物に引き付けられるべきではない。私たちは普通、心の集中を強いられている。私たちの心は、抵抗できない対象物の魅力によって、様々な物事に集中を強いられているのだ。心を制御し、私たちが望む対象に心を集中させるためには、特別な訓練が必要とされるのだ。
どのように心を観察するか
制御されず導きのない心は、私たちを永遠に堕落させる ── 私たちを分裂させ、殺すだろう。そして制御され導かれた心は、私たちを救済し、自由にするだろう。
どんな物質科学であれ、研究し分析するためには、十分な情報が獲得される。これらの事実は研究され分析されて、科学的な結果となる。しかし心の研究と分析において、外部から得られる情報や事実はなく、それは全てが心の思うままに等しい。心は心自体によって分析されるのだ。それゆえ最も偉大な科学とは、心の科学、心理学の科学だ。
心の深域には魂、人間の本質、アートマンが存在する。心を内向させ、それと結びつけよ。その堅固な視点から、心の渦巻きは監視され、事実が観察できるのだ、それは全ての人々も同様だ。
心を制御するためには、あなたは潜在意識の中に深く潜入し、そこに蓄積された全ての異なる印象、想い、その他を適切に分類、整理して、それらを制御しなければならない。これが最初の段階だ。潜在意識の制御により、あなたは顕在意識を制御できるのだ。
瞑想の実践的ヒント
スワミ・シュッダーナンダ: 瞑想の真の性質とは何ですか?
スワミジー: 瞑想とは心をある対象に集中することだ。もし心が一つの対象への集中を習得すれば、心はどんな対象にも深く集中できるのだ。
弟子: 聖典には二種類の瞑想が述べられています ── 一つはある対象を持つもの、もう一つは無対象のものです。それはどういう意味でしょうか、そして二つのうちどちらが高度な瞑想ですか?
スワミジー: 最初に、瞑想の実践は心のある一つの対象から前進させねばならない。かつて私は、心をある黒い点に集中していたものだった。それらの日々の間、最終的に私は、黒い点も見えず、黒い点が私の前にあることも全く気づかなくなり ── 心にはもはや波が起こらなくなるのが常だった ── それはまるでどんな空気のそよぎもない海のようだったのだ。その状態の中で、私は超感覚的な真実の一瞥(いちべつ)を体験したものだった。だから私は、些細(ささい)な外部の対象への瞑想実践でも、集中へと導くと考えている。しかし、実践者の心が最も没頭しやすい対象に瞑想するとき、心はとても簡単に静穏に達することは事実だ。私たちの国インドで、たくさんの神々や女神たちの神像礼拝が行われるのは、そういう理由だ。その真の目的は、心の活動を停止させることだが、それは実践者がある対象に没入しない限り不可能なのだ。
弟子: しかし、もし心がある対象に完全に没入し一体化するなら、どのように心はブラフマンの意識を私たちにもたらすのですか?
スワミジー: 最初心は対象の形態を取るが、のちほど意識上の対象は消滅する。そのあとでのみ、純粋な「存在」の体験は存続するのだ。
超自然力
スワミジーは、「わずかな程度のある心の集中により、奇跡的な力を獲得することができる」と言った、そして弟子に向かって尋ねた、「さて、君は読心術を学びたいかね?私は君に4、5日以内に教えることができるよ。」と。
弟子: それは私にどんな役に立つのですか?
スワミジー: そうだね、君は他人の心を知ることができるだろう。
弟子: それは私がブラフマンの知識を達成する助けになりますか?
スワミジー: 少しもならない。
弟子: それなら、その科学を学ぶ必要はありません。
スワミジー: シュリー・ラーマクリシュナはこれらの超自然力を軽んじるのが常だった。彼の教えは、もし探究者の心がこれらの力の現れに心を向けるなら、至高の真実には到達できない、というものだった。しかし、人間の心は弱い、家住者ばかりではなく、サドゥ(僧侶)の90 % はこれらの力の熱狂者となるのだ。西洋においても、男性たちはもしそのような奇跡と出会えば、その驚異に没頭するだろう。シュリー・ラーマクリシュナは、これらの力は真の霊性の障害物であり、その正しい識別ができるように、これらの力の害悪を私たちに慈悲深く理解させたのだった。シュリー・ラーマクリシュナの子供たち(*弟子たち)は、その理由でそれらの力には注意を払わないことに、君は気づいているか?
サマーディの神秘
弟子: 絶対と超越したニルヴィカルパ・サマーディ(*非二元の三昧)を達成するとき、誰も自我意識を通じては二元性(*現象)の世界には戻って来られませんか?
スワミジー: シュリー・ラーマクリシュナは常に言っていた、アヴァターラ(神の化身)だけが、世界に善を行うために、そのサマーディの状態から普通の状態に降りてくることができる、と。普通のジーヴァ(*エゴを持つ魂)たちにはできない。
弟子: サマーディで心が没入し、意識の表面の波が消滅するとき、自我(エゴ)意識を通じた心の活動と世間的領域への帰還はどうなるのですか?そこに心が存在しないとき(*サマーディ)、誰が相対領域(*現象世界)に降下させるのですか、それはどんな手段によってですか?
スワミジー: ヴェーダーンタの結論は、絶対のサマーディで全ての心の現れが停止するとき、その状態からの帰還はない。しかしアヴァターラは、世界への善へのいくつかの欲望を抱く。その糸を掴つかんで、彼らは超意識領域から意識領域へと降りるのだ。
オージャスの力
ヨーギたちは言う、人間のエネルギーの一部は性エネルギーとして、性的想念によって表現されるが、それが抑制、制御されるとき、それは簡単にオージャス(*霊性エネルギー)へと転換する。
オージャスは脳に蓄積され、オージャスが人間の頭にたくさんあればある程、彼はより強力であり、より知的であり、より霊的に強くなる。ある人は美しい言葉で、美しい思いを語るかもしれないが、人々に印象を与えない。別な人は美しくもない言葉、美しくもない思いを語るが、彼の言葉は人々を魅了する。彼の全ての活動は力強い。それがオージャスの力だ。
純潔な男性または女性だけが、オージャスを脳に上昇させ蓄積することができる。それが、純潔が至高の徳性と見なされる理由だ。その理由により、霊性の巨人たちを生み出した世界の宗教組織全てが、絶対の純潔を主張するのをあなたは発見することだろう。完全な純潔が、思い、言葉、行為になければならないのだ。
学習の秘密
数日前、ブリタニカ百科事典の新しい全集がベルール僧院(*コルカタのラーマクリシュナ僧団本部)に購入された。真新しく輝く全集を見て弟子がスワミジーに言った、「一生をかけても、これらの本全てを読むのはほとんど不可能です」と。彼は、スワミジーがすでに10巻を読み終え、11巻を読み始めたことを知らなかった。
スワミジー: 君は何を言ってるんだい?これらの10巻から、君の知りたいどんなことでも質問しなさい、私はその全てに答えよう。
弟子は驚いて尋ねた、「あなたはこれらの本全てを読んだのですか?」。
スワミジー: そうでなければ、どうして君に質問しろと私が言えるかい?
スワミジーはそれを試すために、(*辞典内の項目の)意味を再現させただけではなく、各巻の数か所から、難しい題目のその正確な見出しの言葉を選び出した。弟子は驚愕し、辞典を片づけて言った、「これは人間の力ではない!」。
スワミジー: ただ厳しい節制の遵守(じゅんしゅ)によって、全ての学習は非常に短時間で達成されることが分かるかい ── 人間はたった一度聞いた、あるいは知った事柄の正確な記憶を持てるのだ。
心の力
ラージャ・ヨーガの科学の最初の段階は、内部(*心)の状態を観察する方法を提案する。その道具は心自体だ。注意力が、正しく導かれて内なる世界に向けられれば、心は分析され、その事実が明らかにされる。心の力はまるで散乱した光線のようだ。それらが集中するとき、明るく輝く。これが私たちの唯一の知識の手段なのだ。
世界は、もし私たちがそれをどのように叩くか、どのように必要な一撃を与えるかを知っていれば、その秘密をいつでもさらけ出す。その強さと打撃の力は集中を通じてやって来るのだ。人間の心の力には限界がない。心を集中すればするほど、心の力はますます一点に集中するのだ。それが心の秘密だ。
神秘屋
ヨーガ(ラージャ・ヨーガ)のこれらの体系の中の、秘密や神秘は何であれただちに排除するべきだ。人生の最良の指導者は強さだ。宗教において、他の全ての事柄と同様、あなたを弱くする全てを捨てなさい、宗教は弱さとは全く関係がないのだ。神秘屋は人間の脳を弱くする。それは、最も偉大な科学の一つ ── ヨーガをほとんど壊滅させるのだ。
中道に従え
ヨーギは贅沢と苦行の二つの極端を避けねばならない。ヨーギは断食してはならず、肉体を苦しめてもいけない。そのような者はヨーギにはなれない、とギーターは言う。断食をする者、眠らない者、眠り過ぎる者、働き過ぎる者、働かない者、彼らの誰もヨーギにはなれない。
王道
ラージャ・ヨーガの科学は人類の前に、この真理(不滅性)に到達する実践的で科学的な実現方法を提出する。最初の段階で、あらゆる科学はそれぞれ独自の調査方法を持たねばならない。もしあなたが天文学者になりたければ、坐って「天文学!天文学!」と叫んでも、天文学はあなたにはやって来ない。それは化学においても同様だ。ある確かな方法に従わなければならないのだ。あなたは実験室に行き、異なる材料を用意し、それらを混合させ、調合して実験しなければならない、その結果が科学の知識としてやって来るだろう。もしあなたが天文学者になりたければ、天文台に行き、望遠鏡を覗き込み、星々、諸惑星を研究しなければならない、そのあとであなたは天文学者になるだろう。それぞれの科学は、それぞれ独自の方法を持たねばならないのだ。私があなたに無数の説教を伝道しても、あなたがその方法を実践するまでは、それらの説教はあなたを宗教的にはしないだろう。
瞑想の効果
日夜、ブラフマンを考え瞑想せよ、心の強力な一点集中と共に瞑想せよ。そして外界と関連した生活の時間は、他者のための活動を行うか、自身の心の中で繰り返せ、「個人と世界に善きことが起こりますように!」「心の流れの全てがブラフマンに向かいますように!」と。たとえそのような継続的思いによっても、世界を益するだろう。世界における善なる活動や思いは必ずその結果をもたらすのだ。君の思いの流れは、おそらくアメリカの誰かの宗教感情を目覚ますことだろう。(スワミジーは、コルカタ近郊のベルール・マトの僧院で、このことをインド人の弟子に語った)
瞑想の時間
あなたは、油の途切れ目のない流れのように、心を一つの対象に固定し、保持しなければならない。普通の人の心は異なる対象に向かって散乱している、そして瞑想のときにもまた、最初は心が彷徨(さまよ)いがちだ。しかし心にどんな欲望が起こっても、あなたは静かに座って、どんな思いがやって来るかを観察しなければならないのだ。そのような観察を継続することにより、心は静穏になる、そして心の想念の波は消滅する。あなたが以前に深く考えていた事柄は、潜在意識の流れへと変容する、それだからそれらの事柄が瞑想のとき、心の中に現れるのだ。
瞑想中のこれらの波、想念の現れは、あなたの心が集中に向かって行く兆候だ。ときどき心は一連の観念に集中する ── これはヴィカルパつまり動揺を伴う瞑想と呼ばれる。しかし心が全ての活動からほとんど自由になるとき、心は内なる自己に溶解する、それは無限の知識、一(いち)なるもの、それを支えるものの本質だ。これがニルヴィカルパ・サマーディと呼ばれる状態であり、心の全ての活動から自由だ。シュリー・ラーマクリシュナの中に、私たちは何度もこれら両方のサマーディを見た。彼はこれらの状態を得るために奮闘する必要はなかった。それらの状態は、そのときその場で自然に彼にやって来たのだ。それは驚くべき現象だった。彼を見ることにより、私たちはこれらのサマーディを正しく理解できたのだ。
感情と瞑想
スワミジー: 毎日独りで瞑想せよ。全てがそれ自身で開花するだろう。瞑想中、感情の側面を全て抑制せよ。感情は危険の大きな源泉だ。非常に感情的な人々は、疑いもなくクンダリニーが迅速に上昇する、しかしそれは上昇するときと同様に迅速に下降するのだ。そしてクンダリニーが下降するとき、それは信者を全くの荒廃状態へと導く。この理由で、感情を高揚させるキールタナ(信仰歌の歌唱)や他の事柄には、大きな障害があるのだ。瞬間的な興奮を通じた踊りや跳躍(ジャンプ)その他の力が、心を上昇させるのは事実だが、それは決して長続きはしないのだ。その興奮が覚めると、それとは逆にその個人内に激しい性欲が生じるのだ。しかしこのことが起こるのは、堅固な瞑想と集中の実践の単なる欠如によるものだ。
弟子: スワミジー、私は霊的実践のこれらの秘密を、今までどんな聖典の中でも読んだことはありません。今日私は、全く新しいことを聞きました。
スワミジー: 君は、霊的実践の秘密の全てが聖典に収められていると思うかい?これらの事柄は聖師グルと弟子の継承を通じて、秘密裏に伝えられて行くのだ。一日も瞑想から離れてはならない。もし君に緊急の仕事がたくさんあるなら、少なくても15分間は霊的実践を通じて前進せよ。私の息子よ、確固とした信仰なしに君は目的地に到達できるかい?
あなた自身の生を読め
心を制御し、感覚器官を遮断せよ、そうすればあなたはヨーギだ。そのあと、全てがやって来るだろう。聞くこと、見ること、嗅ぐこと、味わうことを拒絶せよ。外的器官から心の力を引き離せ。あなたの心が没入するとき、あなたはそれを無意識に継続する。そこで、あなたはそれを意識的に行うことを学ぶのだ。心は喜ぶところに感覚器官を向ける。私たちが身体を通じて活動することを強いられている、という根本的迷信を捨てよ。私たちはそうではないのだ。あなた自身の部屋に潜入せよ、そして自身の自己のウパニシャッド(*真理)を獲得せよ。あなたは今までに存在した、あるいは常に存在する最も偉大な本だ、それは無限な全ての倉庫なのだ。その内なる教師が開花するまで、外部の全ての教えは空(むな)しい。
私たち自身の本を開くまで、本は無益だ。また、私たち自身の本を確証させる限りにおいて、他の全ての本は有益だ。力(strength)を理解するのは強さ(the strong)だ、ライオンを理解するのは象であり、ネズミではない。私たちがキリストと等しくなるまで、どうしてキリストを理解できようか?偉大なものだけが偉大なものを理解できる、神だけが神を悟るのだ。
私たちは生きている本だ、そして本とは私たちが語った言葉に他ならない。全てが生きている神、生きているキリストだ。そのように見よ。人間を読め、彼は生きている詩だ。私たちは、かつて存在した聖書、キリストたち、ブッダたちの全てを照らす光だ。その光なしには、これらは私たちにとって死滅し、生きてはいないだろう。
ヨーガの八部門
ラージャ・ヨーガは八部門のヨーガと呼ばれている、なぜならそれは8つの原理部分に分割されているからだ。それらは、
第一 ── ヤマ。これは最も重要であり、生活全てを制御しなければならない。それには5つの部門がある。
1. 思い、言葉、行為によってどんな生きものも害してはならない。
2. 思い、言葉、行為において貪欲であってはならない。
3. 思い、言葉、行為において完全な純潔を守らなければならない。
4. 思い、言葉、行為において完全に誠実でなければならない。
5. 贈り物を受け取ってはならない。
第二 ── ニヤマ、身体の配慮、日々の沐浴、食事、その他。
第三 ── アーサナ。坐る姿勢で、腰、両肩、頭は垂直にし、背骨は自由にしなければならない。
第四 ── プラーナーヤーマ。呼吸の制御(プラーナまたは活力の制御)。
第五 ── プラティヤーハーラ。心を内向させ心が外に向かうのを制御し、心の内部の事象を理解するために熟考する。
第六 ── ダーラナー。一つの主題への集中。
第七 ── ディヤーナ。瞑想
第八 ── サマーディ。覚醒、私たちの全ての努力の目的地。
ラージャ・ヨーガを通じて神に到達しようと求める者は、心、肉体、道徳性、霊性が強力でなければならない。その光の中で全ての段階を歩め。
境界
これは個人性を明らかにするためのレッスンだ。誰もの個人性は開拓されねばならない。全ての人々はその(*個人性の)中心で出会うだろう。「想像力(イマジネーション)は霊感の戸口であり、全ての思考の基盤」だ。全ての預言者たち、詩人たち、発見者たちは、偉大な想像力を持っていた。自然の説明は私たちの内部に存在している。石は外側に落下するが、重力は私たちの内部にある。食べ過ぎる人々、断食する人々、過度に眠る人々、わずかしか眠らない人々はヨーギになることはできない。無知、移り気、嫉妬、怠惰、過度な執着は、ヨーガ実践成功の大きな敵だ。三つの重要な必須条件とは、
第一。肉体的、心理的清らかさ。全ての不浄性、心を低下させる全ては放棄しなければならない。
第二。忍耐。最初は素晴らしい現象(*体験)が生じるだろうが、それらは全て終わるだろう。これは最も厳しい期間だ。もしあなたが忍耐できれば、最終的に成功することは確実だ。
第三。不屈の努力。どんな困難に出会っても、健康でも病気でも努力せよ、一日たりとも決して実践を回避してはならない。
心とその側面
内的器官つまり心には四つの側面がある。第一 ── マナス、熟考または思考する機能であり、それは制御されないために、通常ほとんどは無駄に浪費されている。それが正しく制御されれば、素晴らしい力を発揮する。第二 ── ブッディ、意志(ときどき知性と呼ばれる)。第三 ── アハムカーラ ── 自己意識の自我(アハム「私」からやって来る)。第四 ── チッタ、心の全ての活動を生み出す材料であり、いわば心の床、あるいは心の様々な活動が波立つ海。
ヨーガは、私たちがチッタの様相、つまり様々な活動への変容を停止させる科学だ。海に反映された月が波によって壊れるかぼやけるように、アートマン、真の自己の反映は心の波により破壊されるのだ。海が鏡のような静寂に静まるときにのみ、月の反映を見ることができるように、「心の材料」であるチッタが完全な静寂へと制御されるときにのみ、自己は認識されるのだ。
黙って瞑想せよ
神を私たち自身の外部に見出すことは不可能だ。私たち自身の魂が、私たちの外部に全ての神性を提供するのだ。私たちは最も偉大な寺院だ。具象化(*対象化)とは、私たちが自身の内部に見る事柄の単なる微かな模造だ。
心の集中力は、私たちが神を見るための唯一の手段だ。もしあなたが一つの魂(自身の魂)を知れば、過去、現在、未来の全ての魂を知る。集中した心は、魂の隅々までを私たちに見せる灯火ランプだ。
真理は部分的ではない。真理は全てへの善のために存在する。最終的に、完全な休息と平和の中で真理を瞑想し、あなたの心を真理に集中し、あなた自身を真理と一体化させよ。そうすればどんな言葉も不必要となる。沈黙が真理へと運ぶだろう。あなたのエネルギーをおしゃべりで浪費せずに、黙って瞑想せよ。そして外界の喧騒に妨害されるな。あなたの心が至高の状態のとき、外界の喧騒には気づかない。沈黙により力を蓄積せよ、そして霊性の発電機となれ。